谷川楕長
Dacho Tanigawa
1956年〜1987年
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| 年譜
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| 1956年8月 | 22日 | 姫路に生まれる |
| 高校時代はバスケットの選手として長身を生かして活躍する。 | ||
| 1974年 | 大阪経済大学入学 この頃京大西部講堂での大駱駝艦天賦典式「象牙令」、 北方舞踏派「夏至の眼」、劇団日本維新派「風ぶとん」を見る。 |
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| 1978年8月 | 上京。大駱駝艦夏季集中講座に参加。 | |
| 10月 | 古牧温泉でショーデビュー。 原田南店、勝又敬子らと5人チーム「カーマスートラ」。 |
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| 11月 | 鬼怒川温泉。 この頃短歌を多数書きしるす。大学ノートに250余首。 |
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| 2月 | 名古屋雲龍ホール「追い風のドン」で 丸山徹と共に舞台デビュー。 |
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| 4月 | 大駱駝艦拠点を大森から豊玉に移す。豊玉伽藍工事開始。 | |
| 7月 | 一期工事終了。ショーの旅。 | |
| 9月 | 豊玉伽藍落成記念公演「貧乏な人」丸山、海田と共に 足が棒になる法然を踊る。 |
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1980年1月 |
「十二の光」シリーズ 小冊子「幽契」に「阿呆」執筆 |
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| 10月 | 「十二の光」番外編「海印の馬」 京都曼殊院横特設盤船伽藍 この一年間で舞踏手として大きく成長すると共に 制作部員として対外的に活躍する。 |
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| 1981年3月 | (株)大駱駝艦破産事件勃発。 取立てのヤクザに犬の散歩係として勧誘される。 |
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| 4月 | 桃夭会「娘工場」 | |
| 11月 | 「かたまり」 | |
| 1982年2月 〜3月 |
ショー、トロピカルナイト台湾ツアー。 2ヵ月半の旅の間に踊りの構想、イメージスケッチ、短歌、 小説の下書きらしきもの等、台湾舞頭記と題する大学ノートに びっしり書き込んでいる。 |
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| 3月 | 「スサノオ」プレイべント、ライブハウス十一ヵ所 連続ジャック「風媒亀」に台湾から帰国翌日に出演。 |
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| 5月 | 麿赤兒リサイタル「スサノオ」 | |
| 7月 | 米仏ツアー「海印の馬」 大駱駝艦初の海外公演で元気一杯の頃。 |
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| 12月 | 桜井ユリソロリサイタル「梅干と禿鷹」 | |
| 1983年5月 | 草莽塾「金太郎の病気」 | |
| 11月 | 「溶けていく風」 | |
| 12月 | 「族長の足袋」この舞台で、田んぼ、どろ、蓑踊り、自転車、 トタン板等それまで温めていたイメージを舞踏し 「谷川の踊り」を開花させる。 |
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| 1984年2月 〜3月 |
「族長の足袋」大阪・京都・名古屋公演。故郷関西での公演故 大いに思い入れあり熱演したが、大阪公演の打ち上げで 後頭部を強打、その後の京都・名古屋公演は出演不能となる。 |
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| 4月〜5月 | 「日本の夜明け」東京・名古屋 | |
| 7月 | 「喰光蛾」族長の足袋で名古屋公演に出演できなかった事の おわびを兼ねて七ツ寺共同SDでソロ公演を行う。 |
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| 12月 | 族長の足袋U「銀の実」 この時期「麿さんを超えるんや」と折々口にしていた。 ジュゴクのソロはそれを実現してみごとに圧巻であった。 |
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| 1985年1月 | 機関紙「海印の馬」に「案山子」執筆 | |
| 2月 | 「五輪の書」 この舞台が終わった頃から胸に痛みを訴えはじめる。 |
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| 7月 | 伽藍建設で矢野真氏のアシスタントであった 朝山君の葉山の海の家で遊ぶ。 |
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| 9月 | 山海塾舞踏手高田悦志君の葬儀の日に胸の激痛を訴え レントゲン撮影の結果築地のガンセンターへ緊急入院となる。 |
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| 11月 | 胸腺及び肺の3/4を切除 看護婦同行の外出許可を得て「五輪の書」横浜公演を見る。 |
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| 12月 | 一時退院 | |
| 1986年1月 | 正月を豊玉伽藍で過ごす。「無頼派宣言」執筆 その後通院と一時入退院を繰り返す。 |
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| 4月 | 「出、トヨタマ」 | |
| 秋 | 主治医宮沢先生の勧めで宇都宮ガンセンターに転入院。 | |
| 12月 | 「五輪の書」宇都宮公演を見に出かけようとするが果たせず。 | |
| 1987年1月 | 大駱駝艦一同十数人と共に宇都宮二荒神社に初詣 最後の外出となる。 |
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| 3月 | 28日 | 永眠 享年30才 |
〜1993年3月28日発行谷川楕長追悼遺稿集「案山子」より